この記事にはミヒャエル・エンデの童話『モモ』のラスト近くのネタバレ(それもうろ覚えの)が含まれます。ご留意の上お読みください。
最近、少子化問題とそれとは真逆の世界全体での人口増加問題が良く取り沙汰されますが、「人口が増えすぎた」という言葉を聞くたびにミヒャエル・エンデの『モモ』のラスト近くの灰色の男たちの最後を思い出します。
灰色の男たちというのは人の時間を奪う存在で、灰色の帽子をかぶったセールスマンぽい恰好をした妖怪みたいなものだと思って下さい。この物語で、人間の時間は美しい花の姿をしていて、灰色の男たちは自らの冷気でその花を凍らせて葉巻にしてくゆらすことで存在できます。時間を奪われた人間は、生活のゆとりというか心の余裕をなくしていきます。
しかし、ある時彼らの跳梁跋扈を憂慮した存在によって、時間の花の供給が止まってしまいます。
灰色の男たちは慌てて時間の花を貯蔵した貯蔵庫に集まります。
花の供給が途絶えた今、全員分を支えるだけの花はありません。
彼らは自らに振られた番号を基準に、コイントスでお互いを間引く*1ことを決めます。(表なら奇数、逆なら偶数、みたいな感じで)
しかしある程度それを繰り返したところで、もう一つの重大な事実に気が付きます。
「この人数では、時間の花を冷凍するだけの冷気を保てない!*2」
……ここからまたひと騒動あって、彼らは結局全滅するのですが、うろ覚えの内容をひっぱるのはここまで。
時間の供給が止まったことを、資源や環境の有限性の発覚に、時間の花を凍らせておくための自らの冷気を、インフラを維持する人手なり、次代を生む若い世代などに例えれば、今の私たちは灰色の男たちに似ているという気がするのです。
私たちは「人が増えすぎた」と言い過ぎたのかもしれません。そして、お互いを直接間引くことはしなかったまでも、出生率を落とすことで結果的に自らを間引いてしまったのかもしれません。
最近「老人を自動的に消すシステム」がどうのという言葉で、某アメリカの大学の教員をしている日本人学者が炎上しましたが、もし老人をそんな風に消しても、日本社会は息を吹き返すかといえばそうとも思えません。高齢者も生産*3、消費*4両面で重要である以上、ある日ポンと一定の数の人が減ってしまったら、逆に打撃(特に生産というかインフラ維持面において)ではないかと思うのです。
高齢化は少子化から起きていますから、人口増加に対応しようと急に出生率を下げようとしたのがそもそもあやまりだったのではないかという気がします。
妊娠出産は女性の体に負担をかけますから、衛生環境の向上と女子教育が進めば、自然と子供の数は減っていったのではないでしょうか。元々減る力が潜在的に働いていたのに、「子供が多いのは望ましいことではない」と一時*5言ってしまったことが今に続く呪いのように思えなくはないです。
余談ですが、ミヒャエル・エンデはドイツの人で、成人し少し物を知った今では、番号をもとに人を間引く、というのはユダヤ人虐殺を連想しなくもないです。ひょっとしたら、エンデには「異民族を『処分』したドイツ人は、いつか自らをも整然と『処分』してしまうかもしれない*6」という思いがあったのかもしれません。
でも、かといって気候変動も深刻ですし、人口と環境の関係をどうしたらいいのかは私にはわからないのですが……。
夜中の愚痴は、ここまでにいたします。では。
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