ダウが大幅に下がって、それどころの話ではないんですが、下書きのまま貯めとくのもなんですので(もう書き始めて30日以上たってた)、宗教への規制は現代日本において色々難しいという話を。内容的にも「もうみんな知ってますよ」というものですし、いつも以上に付け焼刃と、他人様の言葉で埋めた記事になりますが……
日本版「ライシテ」は可能か
政教分離と言っても国によってあり方が違う
まず、宗教に関係する問題(政治やお金なども含む)を扱った、『宗教問題』の編集発行の責任者である小川寛大氏のTwitterから。
時勢なのか最近やたら「政教分離とは何か」みたいなことを人に聞かれるが、これは国や地域によって背景、事情みたいなものが異なり、世界横断的に決まった概念があるわけではない。しかるに「日本もライシテ的なのを導入すれば全解決」式のことを多分ライシテを知らない人から多々言われ疲れとります。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2022年7月16日
ライシテ、というのは既に詳しくご存じの方が多いと思いますが、フランスの政治と宗教の区別を定めたフランス共和国の基本原則のことです。
下からの革命で宗教と戦ったフランス、国が宗教を押さえてきた日本
ここからは私見になるので、小川氏の考えと一致するかは分かりませんが、とりあえずフランスと日本の宗教と政治の力関係の違いについて述べていきます。
ライシテが決められたのはフランス革命の頃で、国内で影響力の強かったカトリック教会の力を制限するためでしたが、時代を下るにつれ、カトリック以外の宗教、政治等も政治に影響できないようにするためにも使われています。
そもそもは、カトリック教会が大きな権力として存在していた、フランス革命前の王政期の状況が戻るのを防ぐためだったといってもいいでしょう。*1
それに対し、日本における前近代の状況は江戸幕府期、その後の明治以降の戦前近代期においても、政治機構の方がおおむね宗教より強かったといえるのではないでしょうか。*2
戦前の「大本事件」と戦後の「イエスの箱舟」
実は戦前、日本には「大本事件」(ここで扱うのはいわゆる1935年の第二次大本事件)という新宗教への弾圧事件がありました。この事件は多くの逮捕者と、拷問による死亡者まで出しており、さらに大本教*3は治安維持法を宗教団体として初めて適用されています。
この事件、あるいは大本教という宗教に関しては色々と議論があります*4。しかし、これに続き他の新宗教・キリスト教、一部の仏教団体も弾圧されたため、戦後日本では、信教の自由を重く見るという方向に(特に知識層は)動いていきます。
そしてもう一つ、戦後にも1980年頃、「イエスの箱舟」事件というものがありました。これは、指導的立場にいる男性と、多くが未婚女性の信者(男性も少数ながらいた)という内訳で、共同生活をしていた宗教集団へのバッシング事件です。この団体が、信者ごとあちこちを転々とする放浪生活に入ったため、信者の家族が捜索願を出すなどして、マスコミからも大バッシングを招くことになりました。
結局、捜索願の出された人は家に帰され、指導者は不起訴処分で一件落着したのですが、この事件の顛末もまた、宗教を批判するのが難しくなる一因となりました。
24年6月28日追加。こんな映画も作られてるようです。
オウム真理教事件
そのため、オウム真理教がテロを起こしたという容疑(それは事実だったわけですが)を受けた時、インテリ層(特に宗教・哲学系)はサリン事件の立ち入り調査などで容疑が決定的になるまでは、オウムの肩を持つ人もいました。
容疑が確定し、教祖の死刑執行まで済んだ現在では滑稽に思えますが、戦前、戦後のこうした宗教弾圧的な流れ「だけ」を頭に入れていれば、多少は仕方のないことでした。
オウム事件の少し前、既に統一教会の霊感商法と合同結婚式は問題になっていましたが、
「金をとる宗教はあっても、まさか命までとって、国家転覆を考える宗教なんてないだろう」
と多くの(知識)人が考えてもいたのでしょう。
それが実際に存在し、自分たちの命が狙われていたのですから、世の中の人の関心は一気にオウム真理教の方に向き、統一教会やほかの問題の指摘されていた宗教に関しては、マスコミ報道において扱いが少なくなりました。
そしてここ数年で「宗教二世」の問題が出てくるまで、あるいは今回の安倍元首相銃撃事件が起きるまで、忘れ去られていたのが一般人における認識ではないでしょうか。
戦前と戦後の憲法における「信教の自由」の違い
ここで再び小川氏のツイートに戻ります。
最近いろいろな方に意見を求められるけど、世間では「宗教法人」と「宗教団体」の区別が意外に知られておらず、法人格取り消しは確かに痛手だがオウム残党組織が普通に活動してるように決定打にはならず、そして破防法はそのオウムにも適用されなかったことを考えると、本当にいろいろ難しいんですよ。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2022年7月20日
「宗教団体」というのは、文化庁のサイトによれば「教義をひろめ,儀式行事を行い,及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」、「宗教法人」というのは、「宗教団体」が「都道府県知事若しくは文部科学大臣の認証を経て法人格を取得したもの」のことです。
参考 文化庁サイト 概要より「宗教法人とは」の項.
税制法の優遇を受けることができるなど、宗教団体が宗教法人になるメリットはあることはあるのですが、逆に法人格を取り消されたからと言って、その教団が活動することを止めることや、教団を解散させるような力はないということになります。
それをやったら信教の自由に反することになり、憲法違反ということにもなりかねません。多分それを司直が行ったら、宗教団体側が訴訟を起こし、恐らくは現在の法律では、宗教団体側の勝訴となる確率が高いのではないでしょうか。
そもそも、戦前、大日本国帝国憲法においては信教の自由は、
大日本帝国憲法第28条
日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
とあり、条件付きのものでした。
それに対し、戦後の日本国憲法においては、
日本国憲法第20条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
とあり、政府の、宗教に関する国民への手出しを強く戒めたものとなりました。
私の記憶だけで恐縮ですが、昔、サリン事件の真相が明るみに出た頃、オウム真理教に関して、「大本教の犠牲の上に悪行を重ねた」というような言葉を見たのですが、問題になっている各種の宗教団体にしてもそうでしょう。
オウム真理教の事件以降、こうしたことが繰り返されないように、宗教に関する規制を厳しくする必要があったのでしょうが、それができないまま、今日にいたってしまったとは言えます。それでも、こうした歴史を踏まえれば、現代日本においては宗教の規制は、本当に難しいものなのです。
今問題になっている統一教会のいくつかの活動について言えば、法外なお布施も、合同結婚式も、信者の「自由意志」によってやっていると言えば、法律の建付け上、周囲が手を出しずらいという面があります。
選挙ボランティアも、上から頼まれて強制的に「行かされた」という確実な証拠が取れればいいですが、どんな宗教の信者であっても、当然「支持政党を支持する自由」はあります。「個人の意思で行きました」と言われてしまえば、規制は難しいとも言えます。(ちなみにボランティアに入る際に、統一教会員か事前に聞くことも「宗教における沈黙の自由」に触れるので原則的にはやってはいけないという建前になります。Wikipedia 信教の自由 信教の自由の保障)
政治の側が欲しいのは票よりも「人手」
そして、今回の安倍元首相銃撃事件で明るみになったのは、旧統一教会が重宝されたのは、お金や集団投票よりも、選挙運動のボランティアの提供のためだったというのが分かってきました。
平たく言えば、雑用係の「人手」がいるということです。
下記は銃撃事件の約三か月前の小川氏のツイートです。
先だって人とそういう話をしてきたんだが、「政治家と親しくする宗教」というと「すわ、票田か」みたいな話はもう通じなくなってて、多分どのような選挙でも、候補の当落を左右できる規模の票を動かせるのは、いまやもう創価学会くらいになっている。これはもろもろの選挙を取材してみても実感がある。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2022年4月2日
それであっても政治と宗教の関係というのはあるにはあって、では政治家の側が宗教に求めてる「実利」とは何かというと、多分「雑用係」なんだな。ポスター張り、事務所の電話番、街頭演説の賑やかし動員(基本的には数十人ほどでこと足りる)といった。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2022年4月2日
この話は旧統一教会に特に絞っていったものではなく、政治にかかわる宗教全般について語ったツイートだと思われます。
ですが、事件後、旧統一教会と自民党とのかかわりにおいても、この点が強いことが明るみになりました。
news.yahoo.co.jp7/24(日) 19:45配信
Yahooのページが消えていたらこちらをご参照ください。(両方消えてたらその時はその時で……)↓
www.daily.co.jp2022.07.24
そして、そのような、政党の選挙戦の人手が宗教団体頼みになることに関し、以下のような事情を、小川氏は4月の時点で挙げています。
だいたい「オッス、自分、日本のために粉骨砕身したいと思いまして!」とか言って政治家の事務所にやってくる人に雑用をやらせたりすると、途端にブーブー言い出すんだけど、その点、宗教団体の人は文句言わずにやってくれるからありがたい、というのは結構聞く話だからね。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2022年4月2日
小川氏の友人と思われる方も、同時期にこれらの補足のようににツイートしています。
一連の選挙に関する小川氏のツイートはザ・真実だと思う。
— ヒラリー・クリントン(偽) (@inchikihillary) 2022年4月2日
選挙と支援団体というと、カネと票田を連想する人が多いが、それ以前に選挙は無数の地味で退屈な骨折り仕事によって成立している。
この基本作業を担ってくれる人を集めるのが大変なんですよ。〉RTs
皆さんが日常的に見かける街角のポスターは誰が貼っているのか、郵便受けに入っているチラシは誰が配布しているのか、という話。
— ヒラリー・クリントン(偽) (@inchikihillary) 2022年4月2日
という実情が書かれています。単純作業に見えても、地味な下働きというのがいかに大事かが分かります。
私もこのツイートを読むまで、チラシ配りやポスター貼りの重要さが分かっていなかったのですが、とにかく選挙において「知ってもらう」ことは重要だということが分かりました。
ネットで情報を集められる人はいるでしょうが、その時間の余裕がない人も、自分のポストにチラシが入っていれば読んでくれるかもしれませんし、ネットを使えない高齢者も多いことを考えると、こうした「アナログ」な手法はとても大事なことなのですね。
勘違いした「粉骨砕身」くんたちも問題ですが*5そもそも選挙の手伝いに来る母集団が減ってきているのかもしれないなと思いました。
まとめ
1990年代頃から「無党派層」というものの増加が言われ始めたと記憶していますが、自民党そのものの党員数が2000年頃から減り、ここ数年で回復基調にはあるものの、最盛期には及ばないようです。
参考(2年前の記事ですが……)
www.asahi.com2020年8月8日 5時00分
職場以外の何かの集団に「所属する」のは色々面倒なことではあり、お金も時間もかかるので、すべての人に勧められることではありません。(仕事と生活で体力使い果たしてます、というような人も世の中には多いわけで……)
ただ、人が「集団になる」ことが難しくなった社会の中で、政治的影響力を持つ集団として残ったのが「宗教」というのも厄介な話だと私は思います。(野党支持層においても、組合の弱体化など、支持母体の減少というのはあるのではないかと思うので、本質において同じかもしれません)
こういう意見を言う人もいます。
niconicoconsultant.hatenablog.com
結局、党員になるまではできないまでも、私たち一人一人が、もう少し政治に関心を持って投票に行ったり、少しでも「関わる」ことしかこの状況からの脱却は難しいのかもしれません。
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