……で、この戦いで(悪い意味で)有名な小早川秀秋について書こうと思ったんですが……。
体力がない。*2
ので適当に概要を書こうと思います。
裏切り者というけれど
関ヶ原の戦いとは何ぞや? という方*3には悪いんですが、かなり端折ります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康が次の天下人となるきっかけとなった戦い、なんですが事情がややこしく……。秀吉の家臣で五奉行の一人だった石田三成と、五大老の一人だった徳川家康の戦い、と通説ではされています*4。
で、小早川秀秋という人は、秀吉の正妻、高台院*5の甥っ子で、秀吉の養子となった人です。一時は秀吉の後継者か、それに近い地位にいた人ですが、秀吉の実子豊臣秀頼が生まれたことから、たまたま跡継ぎのなかった小早川隆景の元に養子にいった人です。*6
小早川隆景というのはどういう人かというと、西国の支配者となった毛利元就の三男で、次男が養子に行った吉川家とともに、元就の孫で家康同様五大老の一人という地位にあった、毛利輝元を支えていた人で、関ヶ原の戦いの数年前に家督を秀秋に譲って亡くなっています。豊臣本家は継げなかったけど、そこそこ大きな大名の跡取りにはなっていたということですね。
で、当時満年齢で18歳くらいだった*7小早川秀秋ですが、最初は毛利家他の西国大名を主とした西軍についていて、色々あって関ヶ原の戦いの当日、戦の最中に、彼が突如として東軍に寝返ったことで、戦いの趨勢が決し、家康は勝利を収めた……というのが割と一般的な話です。
実質的には東軍だった?
……が、この話には裏というか最近は異説が出ていまして、どうも元は東軍、というか家康側に付きたかった、もしくは敵対はしたくなかったのに、成り行き上西軍になり、なんとか東軍に合流しようと自由行動した挙句、両軍が激突する関ヶ原でやっと東軍に合流した……という説もあります。
というのも元々関ヶ原の戦いというのは、当時会津にいた、五大老の一人の上杉景勝を討つため*8の兵員を、転用したものだからです。
家康の会津征伐に従うために、兵を関西まで呼んだはいいのですが、その兵が国元*9から着いた頃に、「家康を討つぞ!」という石田三成らの決起が起きてしまい、「東軍に付きます」とは言えない状況に陥ります。
関ヶ原の前哨戦の一つに、伏見城の戦いというのがあって、ここに、秀秋の実のお兄さんの木下勝俊も詰めていたそうです。そのつてを頼って秀秋も伏見城に詰めようともしたらしいのですが、勝俊が伏見城を出てしまいます*10。
秀秋は伏見城を攻めるしかなくなり、伏見城が落ちてからは、西軍を離れ独自行動をとり、決戦の前日の9月14日、関ヶ原の松尾山城を守っていた伊藤守正という西軍大名を追い出して居座ってしまいます。この時点で西軍側首脳も、ほぼ秀秋の東軍への加担を確信していたのではという説もあるようです。
まとめ
ざっとまとめましたが、ちゃんと本やサイトに当たらないで、頭の中の知識だけで書いているので、結構いい加減です。*11
小早川秀秋に関しては来歴とか人物像とかについても色々書きたかったんですが、それはまた別の機会に……書けたらいいな……。
では。
↓昨年出た小早川秀秋の伝記漫画です。ここにあるのも、あくまで「一説」という感じです。(私も全然詳しくないのですが……)
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