株中毒の投資日記

日本株オンリーでしたが、2024年からはそれ以外の投資法にも言及するつもりです。

金吾様に献杯を 関ヶ原の戦いと死去までの小早川秀秋について

 以前書いた記事の続きです。↓

gonstock.hatenablog.com

 この記事では関ヶ原以降、晩年の金吾中納言小早川秀秋について、いくつか書いていこうかと思います。

 

関ヶ原の戦いと「問い鉄砲」

 関ヶ原の戦いで裏切ったことで悪評が高い小早川秀秋ですが、どこか嘲笑めいた評価があるのは、裏切りに加えて、いわゆる「問い鉄砲」の逸話があるためだと思われます。関ヶ原での戦いが始まって、なかなか旗幟を鮮明にしない秀秋の陣に向けて、腹を立てた徳川家康が鉄砲を撃ち込み、それにおびえた秀秋が決心して西軍に突入したというエピソード。

 色々小説やドラマなどではお約束と化しているようですが*1、この逸話自体に疑義を呈する意見は随分前からありました。*2 

関ケ原の戦いの実際は?

 まず、資料類からのアプローチ。関ヶ原の頃の戦いからある程度時代が下った頃にならないと銃撃の描写が出てこないこと、それも初期のうちは諸史料ごとに微妙に表現が食い違うなどしている、関ヶ原から100年くらいたった史料に前述したようなパターンの話ができ、それ以降広まったのではないかという説。

 次に、物理面からの考察。東西両軍とも、通常戦闘のための鉄砲や大砲が撃たれて、その轟音があちこちで響いている中*3で、家康方の催促の鉄砲であると判断できたのか、あるいは、そもそも小早川の陣まで聞こえたのかどうかという問題。*4

 詳しくはWikipedia 関ケ原の戦い の中から「関ヶ原の戦いに関する諸説」内の「小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃」欄を参照して下さい。

    来年の大河ドラマ『どうする家康』ではここら辺どうなるんでしょうね。フィクションと史実はあくまでも別物ではありますが。

どんな人だった?

 さて、実体としての小早川秀秋はどんな人だったのでしょう。

 彼の肖像画は二枚残ってます。

commons.wikimedia.org

 割と有名な垂れ目の肖像画↑と……。

dl.ndl.go.jp

 ちょっとりりしい、そして油断ならなそうな肖像画↑と……。

 ただし、下の肖像画はかなり時代が下ってから描かれたもので、どちらかと言えば想像図に近いものではないかと思われます。(享年も割と一般的な(数え)21歳ではなく、「二十六歳(満年齢25)」と記載されています。)

 じゃあ上段の肖像画が近いかと言うと、これに関しても異説があります。確かに彼が没してから間もなく描かれたものではあるのですが、これは養母で叔母の高台院が描かせたもので、当時の慣例? として「成年後死んだ子供を、幼かった子供の頃の絵を描いて供養する」という習慣があったもので、幼児期のイメージで描いたものではないかという説もあるそうです。秀秋は7歳で元服しているので、幼い頃でも束帯姿で描かれていてもおかしくはないわけです。

 肖像画の他に木像も残っているのですが、菩提寺の岡山の瑞雲寺にあるもの↓と、

www.city.okayama.jp

菩提寺の京都の瑞雲院にあるものとではやはり雰囲気が違い(前者の方がりりしい感じ)迷うところです。

blog.goo.ne.jp

 はっきりわからない、が正解なのでしょうね。(まあ歴史人物みなそうと言えばそう)。彼自身が早世して、嗣子もなく絶家しているため、関ヶ原でのこともいいように書かれてきた面もあるようです。

 身長についてはどうでしょう。

 残っている陣羽織の裄丈から推察して、170センチくらいではと言う説を読んだことがあります。(参考;https://cypresshushizen.blog.fc2.com/?tag=%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B)陣羽織というものが、甲冑の上から着るものであることを考えると一回り小さく160センチくらいまで縮めた方がよいのかとも私は考えたりもしますが、どうなんでしょうか?

 時代背景を考えると、当時の人並み~少し大きいな、くらいまでというところでしょうか。*5

 余談ですが、陣羽織は袖がないのが普通のようです。(第二次朝鮮出兵に参加しているので、その時に仕立てて着たものかもしれないし(朝鮮半島は日本に比べ寒いです)、関ヶ原の合戦新暦に直すと11月頃で、かなり冷えるとのことです。)

emuseum.nich.go.jp

 参考までに甲冑の着けかたの動画を貼り付けておきます。

 甲冑の着方

www.youtube.com

 コスプレイヤーの方は、この陣羽織のデザインをまねて、袖が手首くらいまであるゆったりした衣装を作っていますが、実際の陣羽織は丈の短いものです。陣羽織というものは、実際は手首まで袖があったら刀や槍を使うときに邪魔になるらしいです。

 これくらい↓シュッと着るものだったのではと思います。(この動画の絵のようなイケメンさんだったかは分かりませんw)

www.youtube.com

晩年と死因

 秀秋は関ヶ原の二年後の1602年の10月18日(新暦の12月1日)に死去しています。享年は満20歳というのが一般的です。

 この早すぎる死について、裏切り者と言われることに気を病んで酒におぼれて体を悪くして、といった説が一般的ではあります。

    しかし、酒好きなのはおそらく元々であり、10歳にもならないころに元服し、一人前の公達として酒宴などで飲まされているうちに自然と酒好きになり、ひょっとしたら依存症に近い状態になっていたのではと考えています。

 Wikipediaでの注釈にも、

曲直瀬玄朔著『醫學天正記』(医学天正記)には18-19歳(数え歳)の秀秋(原文は「備前中納言秀秋公、年十八 九歳」)診察時の情報が載っており、乾上に「内傷附飲食 十三」には「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數(以下、薬の処方の説明なので略)」、乾下に「黄疸 三十六」には「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚(薬説明、中略)○黄色少減、心中悸動心遠、脉遅用(薬説明、略)」とある。 (近藤瓶城 編『史籍集覧 第二十六冊』近藤出版部、1902年、p.442・461。) このように食事がとれないような体調不良が何度かあり、酒を飲むと吐く・尿が赤くて舌が黒い・脈が細かい(内傷)、全身黄色い・心臓の下が硬く腫れ痛い(黄疸)などと身体の異常が記載されており、その原因は曲直瀬も"酒疸"(=アルコール性肝硬変)と指摘し、当時の名医にも酒が原因と認識されていた。

小早川秀秋 - Wikipedia

 とあり、関ヶ原の頃、もしくはちょっと前くらいの頃すでに、相当重い症状が出ていたのが分かります。「尿が赤くて舌が黒い」とか、医学に明るくない私でも、これはやばいという感じを受けました。

 彼の生涯で見逃せないのが、養父の秀吉による溺愛と、実子ができたことによる突き放し、義兄豊臣秀次切腹とその後のその妻子の処刑など、自分の身も危険だと思わざるを得ないようなストレスも飲酒の裏にあったろうと言われてます。

     いずれにせよ個人的には、半ば義務だった早すぎる飲酒の開始の時点(そしてそれを止められる人がいなかった時点)で、彼の夭折はひょっとしたら決まっていたのではないかと私は思っています。

 関ヶ原の戦い後、秀秋は、筑前から岡山へと領地変えになり、加増となりますが、家臣団がまとまらず、逃げた重臣などもいて、苦労したようです。*6

 そんな中でも、岡山の寺社の整備、検地、岡山城の整備に努めるなど、近年は見るべきものがあるとして、再評価する意見も出てきています。

 

 こんなところでしょうかね。なるべく短くしたかったのですがかなりの字数になってしまいました。

 では、金吾様に献杯

 

 

 ついでにおすすめ↓(主人公は小早川秀秋ではありませんが……)

 

 

   ここまでお読みいただき、大変ありがとうございます。よろしければクリックお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

*1:漫画『へうげもの』15巻での問い鉄砲(正確には微妙に違うけど)はもはや論外というか突き抜けまくりです。(この漫画の織田有楽斎が色々とひどいです。さすが織田信長の弟君w。) 

*2:私の記憶にある限りでは、前世紀末ごろのNHKの歴史番組で見たような記憶があります。

*3:これに加えて、当時使われていた黒色火薬は、煙もすごいんだそうです。

*4:私がNHKで見た記憶があるのは、家康の陣地から火縄銃を撃って聞こえるのかという、再現実験だったと思います。

*5:参考までに伊達政宗の身長は159.4cmだったそうです。伊達政宗 - Wikipedia

*6:そもそも親戚筋や豊臣恩顧、その後小早川家への養子入りに伴う毛利方の家臣の流入、度重なる領地替えでの家臣の出入りなどがあり、一枚岩とは言えない状態だったようです。