ずっとご無沙汰してすみません。前の記事からずっとダウと日経の値動きを追いかけるのに夢中で、取引記録をかけませんでした。
しかも、新しい記事は関ヶ原の戦い関連の話だったりします。
以前から関ヶ原の戦いとそのキーマン? の小早川秀秋のことは記事にしてますので、下記の過去記事をどうぞ。
以前、「突っ込んだ記事は、関ヶ原合戦の日の旧暦新暦変換の10月頃書けたらいいな、とおもいます。」などと書いておきながら、結局バタバタするままに、あまりいいネタは書けないと思います。ちょっと小早川秀秋ばかりだったので、少し離れた視点からのことも書けたらいいな……。
小早川秀秋の裏切りが決定打、というけれど
よく、小早川秀秋の裏切り(これも「裏切り」と言えるのかも疑問視されているのですが)さえなけれは西軍は勝てたのに、と言われていますが、本当にそうなのでしょうか。
こんな話もあります。↓
検索したら出てきますが情報処理学会の全国大会で関東学院大学の学生が「関ケ原IFシュミレータ」というのを発表しててですね…
— ぽっぽちゃん (@12ZOGWoR83XeA0v) 2021年9月2日
色々なケースを予想するんですが「史実」「秀秋公が西軍として参戦」「毛利軍が静観しない」の3パターンでは東軍の勝率が100%という辛辣な結果が弾き出されました。
検索したら出てきた、上記のものと思しきPDFがこれ。↓
https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_uri&item_id=162615&file_id=1&file_no=1
これを見ると、小早川軍が西軍を裏切らないだけでは、西軍の勝利確立は0%で史実と変わらず、小早川軍に加え、毛利軍が参戦して西軍の勝利確立がやっと77%になる、とのこと。
無論、前提条件にしたデータの参考資料なども、考えていかねばならないでしょうが、ひとつの考えではあります。
西軍の首謀者はやはり毛利輝元?
割と一般的な関ヶ原のイメージとして、「徳川家康の専横に憤った五奉行の一人、石田三成が、五大老の一人毛利輝元を担ぎ上げて決起」という、形式上毛利輝元がリーダー、実質的には石田三成がリーダーというものがあります。
実際、乱後の責任者として捕縛の上死罪になったのは石田三成*1で、毛利輝元は減封ですんでいます。*2
しかし、やはり毛利輝元が実質的な西軍首魁で、三成はあくまでその下の実務を仕切っただけという説もあります。(下記リンクの「関ヶ原の戦いに関する諸説」参照)
こんな歴史小説も出ています。
淀殿が西軍派? それとも北政所が西軍派?
秀頼の生母で豊臣秀吉の側室の淀殿が西軍に積極的に関わっていた、とする説も多いですね。逆に秀吉の正室の北政所(諱はねねともおねとも。秀秋の叔母で養母)が石田三成の娘を養女に貰っていることなどから、高台院が西軍派だったとする説もあるようです。
しかし、史学的にはどちらも決め手がないようです。
存外、五大老五奉行他の家臣大名同士の対立が、あれよという間に広がったのが関ヶ原で、豊臣の中枢にいた二人にしても「蚊帳の外」だったんじゃないかという気が私はします。
大河ドラマの『どうする家康』ではどんなふうになるのでしょうね。
では。
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